へたっぴリーグ・ミニコラム「俺はかくぜ!」 Vol.7

私と古田敦也と中井美穂   BrainMagicians ダブル


皆さんこんにちは。
BrainMagicians代表のダブルです。

昨日2007年10月7日、私は祖母が亡くなった時の10倍くらいの涙を流してきました。
ヤクルト古田選手の引退試合です。

18年前の1989年11月26日、私は高校生でした。
友達数人と一緒に東大の駒場祭って学園祭に行っていました。

当時サンケイスポーツのヤクルト担当をしていた番記者と、プロ野球ニュースの人気キャスターであった中井美穂がヤクルトに関するトークショーをやるというので見に行きました。

当時の中井美穂はそりゃあかわいくて、ちょっと天然ボケで、今の局アナのスタイルの走りです。
私も生で見られるというのと、ついでにヤクルトの話も聞けるという事でこれは是非にと駒場祭へ向かいました。

トークショーはヤクルトの現状などを紹介して無事に終了間近となりますが、最後の質問コーナーになると、キモオタどもが中井美穂に質問攻めを浴びせかけます。
来場者のほとんどが中井美穂目当てですから当然っちゃ当然ですが、質問は中井美穂個人に関する事ばかりで、私は「ヤクルトのトークショーなんだけどなぁ」と疑問に思います。
最後に思い切って、質問してみました。

「で、ヤクルトはいつ優勝するんすか?」

場内、大爆笑でした。
当時のヤクルトは、関根監督が池山、広沢などをのびのびとプレーさせて、野球としては魅力的でしたが優勝争いには一切からむ事のないチームでした。
いつ優勝するかって言ったら、それは立派なギャグだったんです。

ちなみにその時のヤクルト番記者は「投手コーチの小谷さんが退団して大洋に行ってしまうは痛い。優勝は当分無理じゃないかと思います。」
と、はっきりと答えられました。
(この時の録音テープは今でもしっかり残してます。いずれビデオサイトに上げるかも知れません)

ところがトークショー会場で受け狙いの質問、やりとりが行われている瞬間に、実はヤクルトスワローズの運命は大きく変わっていた事をその時知るよしもありませんでした。

この1989年11月26日、トークショーとほぼ同時刻、赤坂プリンスホテルでは第25回ドラフト会議が行われていました。
話題はほぼ一極集中、新日鉄堺の野茂って投手はどこの球団に入るか、これだけでした。
彼はその年優勝した近鉄に入りました。
この日の私の連れは大洋ファンだったんですが、野茂の代わりに獲った佐々木って人がどこの誰だかさっぱり分かりませんでした。
その人は後に大魔神になりました。

で、我らがヤクルトは、ひっそりと古田という捕手を指名していました。
変な眼鏡をかけていました。
どう考えてもしょぼそうでした。

まさかこのしょぼそうな眼鏡が、今目の前にいる番記者の回答「優勝は当分無理」を覆す、ヤクルト黄金期を作り上げる存在になり、ましてや今目の前にいる中井美穂の旦那になるなんて誰も思いもしませんでした。

でも、この人はヤクルトを変えました。
野球における捕手という存在を変えました。
球界を変えました。

場内大爆笑だった瞬間から実際に優勝するまでは、たった3年でした。
弱小ヤクルトファンだった私に勝つ喜びを教えてくれました。
5度の優勝と4度の日本一を味わわせてくれました。

日本は12球団ありますから、単純な確率で4回日本一になるには48年かかります。
一部のチームを除き、通算で4回日本一になっているチームすら稀ですから、これをご覧の皆さんにも、自分の好きなチームが4回日本一になるのを見た事が無い人は一杯いると思います。

それを、わずか10年の間で、たった一人の力で、特に補強もする事のないようなチームで達成してしまいました。
その証拠に、この日本一の間に怪我で長期離脱したシーズンが何回かあったんですが、その時のチーム状態はひどいものでした。

今でも、松坂であったりイチローであったり、個人で凄い投手や野手はいっぱいいます。
でも、彼らが一つの弱小チームをどうこうするのはやっぱり難しいと思います。

たぶん、こんな凄い人は自分が生きている限り出てこないと思います。

私は、この人の引退試合に必ず行くというのは10年くらい前から決めていました。
もしチケット入手にお金がかかっても、これが一生で一番高い買い物になってもいいと思ってました。
もし仕事があっても、その時どんな仕事をしていても休む覚悟でした。
その結果、職を失ってもいいと思っていました。
まあ、たまたま3連休の真ん中だったから影響なかったんですが。

2007年9月19日、古田は引退を発表しました。
理由はチームの成績が一番って事ですが、悔しかったです。

古田本人が出ていたから強い時代を作れたわけで、出ていないなら弱くなるに決まってます。
今は怪我があるから思うように試合に出られないのなら直して欲しかった。
もう古田以上の選手が自分が生きているうちに出てくるわけはないんだから、後継者育成もへったくれもなく、できる所までやって欲しかったというのが本音です。
さっきも言いましたが、もう4回も日本一を見せてくれました。この先ヤクルトの日本一は無いかも知れません。
でも、この人が現役をしている時代に生きていた事で自分は幸せだと思います。

10月6日、引退試合の前日。
私はHLB公式戦で、特別にこの日だけ背番号27をつけました。
眼鏡をかけてキャッチャーをやって、全て右打席で打ちました。
最近はずっと青木モデルのバットでしたが、久々に同僚おふらんすの古田モデルを借用しました。
思えば古田と時期を同じくしてPMをやらせてもらっているのもHLBのおかげです。

私はここ数試合、古田と同じように自分の結果が残せず、チームも派手な連敗をしていました。
打撃は、草野球始めて以来の不振に陥っていました。
27番をつけて、古田ならどうするだろうと一生懸命考えました。
で、球種を読もうと思いました。

第二試合のBAGUS!戦
ピッチャー伊東(憲)さんのスライダーはめちゃめちゃ切れていました。
第一打席は内側からのスライダーを腰を引いてよけたものを、へたっぴストライクゾーンで追い込まれ、最後は外のスライダーを引っかけてサードゴロでした。
第二打席、もうこのスライダーしか投げないと思いました。
初球は内側のスライダーをファウルし、もうボール1個分曲がる事を確認しました。
二球目、そのスライダーが初めて甘くきました。

打球は左中間にあがりました。
BAGUS!外野陣はグラウンド形状もあって極端な後退守備でしたが、それをも抜けて行きました。
年に一度の会心の当たりでした。

ちなみに私は、変化球を待って、その変化球が来て、それを真芯で捕らえた事は生まれて初めてでした。
自分の中では、古田が打たせてくれたんだと信じる事にしています。

翌日10月7日。引退試合。
とりあえずショップに行って、目の前にある限りの古田グッズを買い漁りました。
3万近く払ってました。
というか、これから先のプロ野球でこの人が消える事が信じられなくて取り乱していました。

試合は、あまり見てません。
始めからほとんど泣いてました。
大きな声を出したいんだけど、声が出ませんでした。

今思えば、あまりにもあっけなく、ノーヒットで試合は終了しました。
引退のコメントもあっけなかったです。
最後の「また会いましょう」だけが救いでした。

家族から花束贈呈という事で美穂夫人がやってきました。
私は18年ぶりに中井美穂を生で見ました。
通算で二回しか見てないのに、どういうわけか古田のプロ野球人生の始まりの瞬間、そして終わりの瞬間に私の前に現れます。
18年前の運命の瞬間が鮮明に蘇ります。
涙が止まりません。

一夜明けて、今日10月8日。
これからプロ野球をどうやって楽しめばいいのか、しばらく分かりません。
でも、HLBは続きます。
私は引き続きPMです。

我々のチームには「Brain」と名がついています。
ほぼ全員が素人、HLB参加チームの中で最も弱いと自信を持って言えますが、それでも色々考えてやって行こうとしています。
その最大の手本は失いましたが、私が見てきた18年間の古田の意志を受け継いで、弱いながらも旋風を起こせるチームを目指して行きたい。

何年かかるか分かりませんが、我々のチームがAHLに上がった時、それは古田ヤクルト以上の奇跡を起こせた時だと思います。
 


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